学生や新入社員を過保護に扱う社会とは? 彼らをアプリのように「バグ修正」しようとするその先には・・・【仲正昌樹】
無駄なパターナリズムの背後にある「人間」観に注目せよ!
◾️何が “自分の意志” なのか分からない人たちが増殖してる理由
企業は組織だし、顧客は秩序立った、一律の対応を求めるのだから仕方ないではないか、と考える人は少なくなかろう。しかし、職場での行動を訓練するだけではなく、社員のメンタルヘルスまで体系的な管理の対象にする企業が増えている。つまり、「心」を管理(MC)しようとしているわけである。何らかの理由でメンタルな問題を抱えてしまった社員の相談にのって働き続けられるように調整するのと、メンタルな問題が起きないように管理するのは、全く意味が異なる。
最近では、内定辞退者をなくして毎年の「人材」の補充を確実にするために、両親と連絡を取り、味方につける「オヤカク」を行っている企業もあるという。これは、ただの愚かな過保護のようにも見えるが、企業が、家族という最も「プライベートな領域」を、企業活動の中に取り込んで、管理を強化しようとしているようにも見える。「管理」という言葉とは縁遠そうな「親密圏」から取り込んでいく戦略と言えそうだ。
住友商事は新入社員を、将来希望した部署に配置することを確約して採用する方針を出している。これも新入社員にやさしくて、自発性を尊重しているように思えるが、運用次第では、社員の将来を予め規定して管理しやすくする、ソフトだけど各人の行動パターンに深く浸透する効果的なパターナリズムの戦略になる可能性がある。SFに、各人の“生来の適性”に従って将来の職務が決まっていて、本人たちもそれが自然だと思っている、という設定がよくある。オルダス・ハクスリー(一八九四-一九四三)の『すばらしい新世界』(一九三二)が、その方面での古典である。
人間は勉強や仕事をしていて、何かのきっかけで、長年一緒にいる人にも予想できない大きな変化をするということがしばしばある。そうした自分自身の思わぬ変化を見出すことが、生きがいになることがある――絶望することもあるが。その一方、多くの人が生活パターンを変えたくないという欲求を持っているので、変化の可能性を放棄することと引き換えに安定を約束されると、ついつい従ってしまうことがある。
学校・大学、企業が、本人があまり不快感を覚えないように「人材」をフォーマット化(MC)する技術を次第に高めていけば、いつのまにか、私たち自身が生産ラインに組み込まれた材料+機械の部品になっていて、何が“自分の意志”なのか分からない、ということになりかねない。自分自身が既に「部品=材料」になっていると、他人を新たな「部品=材料」として取り込むことにあまり違和感を覚えなくなる。
ギュンター・アンダース(一九〇二-九二)は、『時代おくれの人間』(一九五六、八〇)で私たちが既にそういう状態にあることを指摘している。アンダースによれば、人間の心身を公私にわたって全面的に管理する技術こそが、全体主義の本質である。ナチスの絶滅収容所で、ユダヤ人が個性のない物質扱いされる前に、彼らを虐待したSSの隊員も含めて、ドイツ人全体が、巨大化した機械の「部品=材料」になっていたのである。
文:仲正昌樹